火中の栗を拾わない

火中の栗がある。

栗はすでに火に投げ込まれたのだ。


このとき、私は栗を拾いに行くべきだろうか。


ひとつ言えることは、それは火中に投げ込まれる前に判断されるべきだった。


ところで、火中の栗を拾うか、拾わないかについて中庸な判断というものはない。


人は、考えよ、と言う。

投げ込まれてからの行動としては最も賢そうなものである。

しかし、考えよ、と言う命令は判断の小休止に他ならない。そしてそれは端的に言って拾いに行かないという判断を隠蔽した判断なのである。


公正な振る舞いは考えよ、と言うことではなく、分からない、と言うことである。

そしてそれを理由に拾いに行かないと判断することである。


火中の栗は悪いものではない。


焼き栗もいいものである。

映画『メランコリア』感想

この感想は2020年4月22日に書かれた。

 

文学が敗北するときとは深い意味がなくなるときだろう。多分その時は、ただ終わる。

 

いわゆるコロナ禍の真っただ中でこの映画を鑑賞できたことは幸運かもしれない。

 

この映画は隕石が地球に落ちる映画である。惑星同士の衝突ではあるが、ジャンルとしてはアルマゲドンディープインパクトと同じ類に属する。

 

この映画が類似映画と異なる点はその美しさとただ終わる点にある。危機に対して人類は抗わない。抗えない。抗っている人はいるのかもしれないが作中では描かれない。

 

ジャスミンうつ病のコピーライター、がこの映画の主人公である。

 

この映画は彼女の結婚披露宴から始まる。と物語の筋について書こう思ったがやめる。ウィキペディアでも読めるし、きっと僕より文章のうまい人がすでに書いているだろう。気になる人はそちらを参照してほしい。

 

ありきたりだがこの映画で重要なのは破滅の美学だろう。

 

この映画では冒頭に結末が象徴的に提示される。

 

それは破滅である。

 

圧倒的な美しさで8分もの時間をかけて描かれている。

 

そこで流れているのはワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』である。

 


WAGNER - Tristan und Isolde: Prelude & Liebestod (Furtwängler/Flagstad)

この曲は劇中複数回にわたって流れる映画のテーマ曲である。

 

この映画の監督、ラースフォントリアーはカンヌで「ヒトラーに共感できる」などと言ったらしい。その後ジョークだったとか言って撤回したらしいが本心だったとしても不思議はない。むしろ制作中に意識しなかったという方が不自然な気もする。

ラース・フォン・トリアー「ナチス擁護発言」謝罪を撤回 : 映画ニュース - 映画.com

 

ワーグナーナチスプロパガンダとして利用されたし、ヒトラーが元々画家志望だったことは有名な話である。ヒトラーは世界支配が不可能と理解するや否やドイツを進んで破滅させようとした。これは比喩でなく文字通りの意味である。

 

美と破滅 

 

これはアンビバレントではない。

 

美と破滅は同じ問題を引き出しうる。それは力の問題である。

 

もし望むような美が得られないのなら破滅することで美を完結させようと思うこと、破滅こそが美を生むと考えることは難しいことではないように思う。

 

力はモノの形を変えることができる。望む形にすることもできるし、壊すこともできる。それが力である。

 

力が働く時は正反対にも力が働く。形を変えようとする力と変わるまいとする力である。

 

この映画では破滅に抗う力は存在しない。破滅が完結する。だからこそ美しいのだろうか。

 

なんだか散漫な感想になってしまったがここで終わりにする。

 

参考文献(申し訳程度に読みました)

セバスチャン・ハフナー(2017)『ヒトラーとは何か』瀬野文教訳 草思社

カント(1964)『判断力批判(上)』篠田英雄訳 岩波書店

 

ゲーム批評を始めるために はじめに

 

 


ゲームは語られなければならない。しかし、どうやって?この疑問が解消されることはしばらくなさそうである。私たちは語らずにはいられない一方で、肝心なことは何一つ語ることができないのだろうか?私はその考えを否定したい。よってゲームの核心をつく言語を作っていこうと思うのである。

 


すでに多くの言葉が尽くされた気もする、ゲームを語るために。そこからスッポリ抜け落ちたものはあるだろうか?ゲームを語る際の核心とはすなわち「ゲームとは何か?」という根源的かつ普遍的な問題である。この問題をあらゆる「ゲーム批評」は避けてきたように思える。

 


あるいは「ゲーム批評」など存在しなかったのかもしれない。実のところゲームについて語られたことの多くは「昔々~があった」というお伽話かユーザーに寄り添った広告ばかりな気もする。

 


僕がゲーム批評が必要だと思うのはゲームは批判されて然るべきだからである。私たちは現状、ゲームが持つ魅力を充分に測ることはできない。その術を持たなくてはならない。それが定量的な分析でなく、ある種文学的に行うことを試みる必要があるのではないだろうか。

 


この試みはゲームの外側に言語、とりわけ批評によってゲームを作ることと、そのプレイヤー、そしてオーディエンスを生み出すことを目的としている。

 


続きは未定である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『天気の子』 覚書

 この文章は個人的な覚書です。数日後に『天気の子』をもう一度見る可能性が出てきたので最初に見た時に思ったこと、考えたことを整理するために残しています。ネタバレも含まれますのでご注意ください。

 

1)『天気の子』が好きか?

ー好き、しかし面白いと思っているかは別問題

 

 僕は間違いなく『天気の子』が好きだ。それは間違いないのだが、面白いか、人に勧められるかと聞かれると、うーんとならざるを得ない。

 

 なぜかというとこの映画をあんまり面白いと思っていないからだ。この映画の脚本には多くの穴が指摘されているし、新海監督作品が持つ弱点である人物描写の弱さもあると思われる。実際その脚本の雑さゆえに僕はこの映画の起承転が面白いと思っていない。

 

 ではなぜ好きかと言われれば「結」部分の圧倒的なカタルシス、そしてそれがもたらす物語の帰結、新海監督が望んだラストが好きだからに他ならない。

 「結」部分はこの映画が賛否両論となることとなった要因の一つであるが、その映像表現の凄まじさ、美しさを否定する声は少ないように思える。アニメとして、映像として、絵として美しさは今年公開されたアニメ映画の中では群を抜いているだろう。

 問題は主人公のする決断とその結果なわけである。つまりそこにノれるかどうかが好きかどうか、評価するかどうかの分かれ道だろう。僕は最後の最後でこの映画にノれたわけで、それでこの映画が好きなのだ。

 

 この映画で主人公が最後に下す決断はいわゆるダメな決断ではないだろうか。つまりそのダメさ、現実的には許されないだろうとか、いやダメなもんはダメだろうとかそういうものを映画で描くこととかが問題である。このダメさフィルタリングとでもいうべきものによって『天気の子』が好きとか評価するとかが変わってくる。

 

 このダメさとはズバリ彼女のために世界(といっても多分東京だけだが)を犠牲にする(といっても多分雨が降り続けるだけだが)というセカイ系よろしくのやつなわけである。このダメな決断は脚本の雑さ(ダメさとも言い換えれるかもしれない)によって支えられている。

 どういうことかというと主人公が最後に下す決断の裏に彼女以外の人の顔が浮かぶと、さらに言えば決断がもたらすセカイ的帰結によって誰かが不幸になるのではと思わせれると、気持ちよく終われないのだ。ビジュアルと音楽がもたらす圧倒的な気持ちよさが損なわれるのだ。

 

 つまりここで主人公(=新海監督)は一時的にセカイ的帰結に目をつむることを選択したのである。それによって少女を一人救うことを選択したのだ。

 

 これはこれでなかなかいいじゃないかと思ったので僕はこの映画が好きです。

 

 ただあの起承転をもう一回見るのかと思うと憂鬱になるのです。

 

                 おしまい

   

 

 

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