火中の栗を拾わない
火中の栗がある。
栗はすでに火に投げ込まれたのだ。
このとき、私は栗を拾いに行くべきだろうか。
ひとつ言えることは、それは火中に投げ込まれる前に判断されるべきだった。
ところで、火中の栗を拾うか、拾わないかについて中庸な判断というものはない。
人は、考えよ、と言う。
投げ込まれてからの行動としては最も賢そうなものである。
しかし、考えよ、と言う命令は判断の小休止に他ならない。そしてそれは端的に言って拾いに行かないという判断を隠蔽した判断なのである。
公正な振る舞いは考えよ、と言うことではなく、分からない、と言うことである。
そしてそれを理由に拾いに行かないと判断することである。
火中の栗は悪いものではない。
焼き栗もいいものである。