『天気の子』 覚書

 この文章は個人的な覚書です。数日後に『天気の子』をもう一度見る可能性が出てきたので最初に見た時に思ったこと、考えたことを整理するために残しています。ネタバレも含まれますのでご注意ください。

 

1)『天気の子』が好きか?

ー好き、しかし面白いと思っているかは別問題

 

 僕は間違いなく『天気の子』が好きだ。それは間違いないのだが、面白いか、人に勧められるかと聞かれると、うーんとならざるを得ない。

 

 なぜかというとこの映画をあんまり面白いと思っていないからだ。この映画の脚本には多くの穴が指摘されているし、新海監督作品が持つ弱点である人物描写の弱さもあると思われる。実際その脚本の雑さゆえに僕はこの映画の起承転が面白いと思っていない。

 

 ではなぜ好きかと言われれば「結」部分の圧倒的なカタルシス、そしてそれがもたらす物語の帰結、新海監督が望んだラストが好きだからに他ならない。

 「結」部分はこの映画が賛否両論となることとなった要因の一つであるが、その映像表現の凄まじさ、美しさを否定する声は少ないように思える。アニメとして、映像として、絵として美しさは今年公開されたアニメ映画の中では群を抜いているだろう。

 問題は主人公のする決断とその結果なわけである。つまりそこにノれるかどうかが好きかどうか、評価するかどうかの分かれ道だろう。僕は最後の最後でこの映画にノれたわけで、それでこの映画が好きなのだ。

 

 この映画で主人公が最後に下す決断はいわゆるダメな決断ではないだろうか。つまりそのダメさ、現実的には許されないだろうとか、いやダメなもんはダメだろうとかそういうものを映画で描くこととかが問題である。このダメさフィルタリングとでもいうべきものによって『天気の子』が好きとか評価するとかが変わってくる。

 

 このダメさとはズバリ彼女のために世界(といっても多分東京だけだが)を犠牲にする(といっても多分雨が降り続けるだけだが)というセカイ系よろしくのやつなわけである。このダメな決断は脚本の雑さ(ダメさとも言い換えれるかもしれない)によって支えられている。

 どういうことかというと主人公が最後に下す決断の裏に彼女以外の人の顔が浮かぶと、さらに言えば決断がもたらすセカイ的帰結によって誰かが不幸になるのではと思わせれると、気持ちよく終われないのだ。ビジュアルと音楽がもたらす圧倒的な気持ちよさが損なわれるのだ。

 

 つまりここで主人公(=新海監督)は一時的にセカイ的帰結に目をつむることを選択したのである。それによって少女を一人救うことを選択したのだ。

 

 これはこれでなかなかいいじゃないかと思ったので僕はこの映画が好きです。

 

 ただあの起承転をもう一回見るのかと思うと憂鬱になるのです。

 

                 おしまい